滝浦真人(2013)『日本語は親しさを伝えられるか』岩波書店
「国語」という国家標準語を制定しようとした明治期から営々と型を作り、守ろうとしてきた日本語の様相、事の経緯を追った本。敬語とポライトネスを研究なさっている方なので、この点については基本事項の説明もあります。
特におもしろいと感じたことを3つ:
1. 明治44年に文部省が出した師範学校・中学校・小学校の『作法教授要項』には、言語対応という章が設けてあり、呼称と敬語の規範が示されている。
本書には書いてなかったが、デジタルライブラリーから閲覧したところ、自称詞は「私」、同輩には「僕」でも差支えない。対照詞は「貴方(あなた)」あるいは「君」でも差支えない、とある。これは1952年の第一期国語審議会による「これからの敬語」にも引き継がれているはず。
2. 大正期の『国民作法要義』では、起床後は歯磨きと洗顔をすませないと家族の前に出てはいけない、、顔を合わせたら「おはよう」と言おう、とあるそうな。
家族にあいさつしようね、というのはこのころから礼法書に再三出てくるらしい。裏を返せばそれまでは家族間のあいさつは通常のことではなかったということになる。今はあいさつしないと叱責の対象になるけれど、結構歴史の浅い習慣だったもよう。
3. 江戸庶民のコミュニケーションの様子がわかる『浮世風呂』によると、「ヲヤお鯛さんおはようございますネ」のように名前とあいさつがセットになっている用例ばかりで、「おはよう」といった「はだかのさいさつ」はほとんどないとのこと。あるとすれば、商業的な決まり文句に限られるのだそうな。
ということは、今日のあいさつは商業的決まり文句からの流れをくんでいるということか。
といったふうに、日本語は型さえ守っておけば「安心」というコミュニケーション、人間関係を見えやすくカテゴリー化する術を営々と構築してきたんだなということがよくわかる。一方で、定型的謙遜表現(お口に合うかどうかわかりませんが、つまらないものですが、お粗末でございました等)の使用が減少しているとい調査結果から、敬して遠ざけるだけのコミュニケーションには満足がいかなくなっている様子も見て取れる、と。なるほど。
謙遜と深くかかわる「ほめへの応答」への興味が再燃。Elements of Proseの授業で取り上げる予定。
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